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Posted by l.c.oh - 2005.09.08,Thu
 昨日に引き続いて薬害エイズがらみの判決です。取り上げるのは、平成17年6月16日に出された、名誉毀損に関するものです。


何が問題になったか
 後からよく調べたところ本当ではなかった事実について雑誌等に掲載してしまったが、書いた人が本当だと思ったことに理由があった場合、不法行為は成立しない。このケースではそのような場合に当たるか。


裁判所の判断
当たる

才口千晴裁判官→当たる(裁判長)


詳細(といっても、できるだけ簡単に)

 このケースは、事実関係が問題になったものです。5日の文で、最高裁判所では事実関係は争えない、と書いてしまいましたが、これは一般論であって、「判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背がある」場合には、最高裁判所が取り上げることもあります。

事実関係
 ジャーナリストのBさんは、薬害エイズ問題に絡んで、「安倍氏とS社が結託して加熱製剤の承認を遅らせた」という記事を書きました。ところが、これは本当ではありませんでした(実際に「本当でない」のかはよくわからないのですが、裁判所は、証拠や証人の証言を検討した結果、「本当だ」ということを認めませんでした。)。
 Bさんが記事を書いた根拠は、安倍氏が新聞社のインタビューに答えたものなどです。内容は、血液製剤で大きなシェアを持っていたが加熱製剤の開発が遅れていたので通例に従って他の会社の加熱製剤の承認を「調整」したこと、安倍氏がS社に寄付金を募っていたことを否定しなかったことなどです。
 安部氏がBさんを名誉毀損による賠償金を求めて訴えたのがこの事件です。

法律
 3つの段階に分けて考えます。

 民法709条は、「故意または過失によって他人の権利」を侵害した場合(不法行為といいます。)、損害を賠償しなければならないと定めています。名誉毀損が不法行為になることは問題ありません。この場合の侵害される権利は、相手の社会的な評価だと考えられています。(これが第1段階です。)

 ただ、社会的な評価が低下したとしても、常に不法行為になるわけではありません。最高裁判所は、本当のことを言ったにすぎない場合には、相手の社会的な評価が下がっても、ある条件がそろうと不法行為にならないと考えています(昭和41年6月23日の判決で明らかにされた考えです。)。その条件とは、①言ったことが社会全体の利害に関係するもので、②言った人は、社会のためを思って言ったこと、③言ったことが本当だと裁判所が認めること、の3つです(刑法の名誉毀損罪では、昭和22年以来、この3つの条件が法律で定められています。刑法230条の2に規定があります。)。これは、本当のことを言って下がるような社会的な評価は張子の虎なのだから、プライバシー侵害にならないような場合には不法行為にしないようにしよう、という考慮に基づくものです。(これが第2段階。)

 この事件で問題になったのは③の条件です(①と②は認められています。)。Bさんは、書いた記事の内容が本当だということを主張したのですが、裁判所は納得しませんでした(③の条件を満たさない)。そうなるとBさんのしたことは不法行為になります。
 しかし、裁判になった時点で裁判所を納得させられなかったとしても、記事を書いた時点では、Bさんが書いた記事を本当だと考えたのがやむをえない場合があります。このような場合、Bさんは、社会のためを思って、本当のことを書いたと思っているので、名誉毀損にはならないと思っています。これを不法行為としてしまうのはちょっと可哀想です。そこで、最高裁判所は、本当のことだと考えたことに十分な理由がある(これは、一般人の感覚で判断します。書いた人の思い込みによる場合を除くためです。)場合に、不法行為にならないことを認めています。これも上に書いた昭和41年の判決で明らかにされた考えで、学者の皆さんもこれを支持しています。(これが第3段階。)

 この事件では、この第3段階、Bさんが、「安倍氏とS社が結託して云々」ということを本当だと信じたことに十分な理由があったかどうかが争われました(事実関係についての争いです。)。高等裁判所では、十分な理由はなかったとして、不法行為になると認め、Bさんに賠償金の支払いが命じられました。

最高裁判所の判断
 前述の第3段階の点については、最高裁判所の考え方は完全に固まっていて、これが変更される可能性はほとんどないといってよいでしょう。
 最高裁判所は、新聞の安倍氏に対するインタビューなどの証拠を元に、Bさんが「安倍氏とS社が結託して云々」ということを本当だと信じたのは十分な理由があった、と判断しました。

 才口裁判官は、裁判長としてこのような判断をした、ということになります。


なぜこの判決を取り上げたかを書きます。
 上で書いたようなことは、公報に、「…雑誌記事等の執筆者がその記事等に摘示されている事実を真実であると信じたことには相当の理由があるとして…」と書かれています。これを見た知人が、何を言っているのかさっぱりわからない、と言っていました。確かに、法律の勉強をしたことがない人がこれをみてもほとんど分からないでしょう。実際、法律を勉強する上でも、そもそも何が問題なのか、なかなか分かりにくい問題の1つです。これは、不法行為になる・ならないというベクトルの向きが段階ごとに何度も替わることが原因だと思います。
 国民審査特集をしようと思ったのは、この判決を、できるだけわかりやすく書いてみようと思ったことがきっかけです。分かるようにかけたかどうかは自分ではわかりません。でも、これで公報に書かれた文の意味が分かる人が少しでもいるとすれば、それ以上の喜びはありません。




 僕の能力からすると、公報などに載っている判決を取り上げるのはそろそろ限界のようです。要はネタ切れです。明日は、適当な判決が見つかったらぜひ書きたいと思いますが、何も書けないかもしれません。

 国民審査に関係して、何か疑問に思っている点などありましたら、ぜひコメントをお寄せください。明日取り上げようと思いますm(_ _)m
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Posted by l.c.oh - 2005.09.08,Thu
まで来てしまいました。まだまだ行きそうな気配です。

 毎日新聞社と産経新聞社が6裁判官にしたアンケートの結果が、6日と7日に公表されたようなので、リンクを貼っておきます。裁判官としての信条や、裁判員制度についての見方、憲法改正議論などについて回答が寄せられています。

毎日新聞  最高裁裁判官国民審査:「憲法の番人」をチェック
産経新聞  11日「国民審査」 最高裁裁判官6人に聞く

法律が絡む点については皆さん回答が似通っています。
・憲法改正について→意見は差し控えるor国民的議論が必要
・憲法違反かどうかを裁判で取り上げるのに消極的すぎないか→少ないとは言えない、数の問題ではない
  今井裁判官が「ふさわしい事件があれば」違憲判断を「躊躇すべきでない」と述べているのが注目されます。
・死刑制度の是非→国民が決めること(全員一致)
  古田・中川・今井・才口各裁判官が、実際に死刑判決を出すには、事件の慎重な検討が必要との補足意見。

詳細は、各ページをご覧ください。
Posted by l.c.oh - 2005.09.08,Thu
 国民審査をしてきました。11日は用事があって投票に行けないので、期日前投票です。

 今回の国民審査の投票率はかなり高くなりそうだ、という話が出てきていますが、今日それを実感してきました。僕はたいてい期日前に投票を済ませるのですが、住んでいるのが田舎なので、投票場所に係の人以外の人がいるのを見たことがありませんでした。ところが今回は、部屋に入ってから出るまでに4人も投票に来た人がいました。期日前、平日の昼間にこの人数ですから、11日の投票率は推して知るべしです。
 小泉首相のやり方には、僕はちょっと引っかかるところがあるのですが、投票率向上には随分役に立っているようですね。

 あ、ついでに、衆院選にもキチンと投票してきました(笑)。



 国民審査特集をしてみて、国民審査に対する関心が思いのほか高いことに驚いています。今までほとんど取り上げられなかったのはなんででしょう?選管の広報の仕方の問題、マスコミの取り上げ方の問題、いろいろ原因は考えられますが、おそらく、一番大きいのは、法律の世界があまりにテクニカルになってしまったところにあるのでしょう。
 国民審査は、社会と法律の世界のずれを明らかにするという役割も持っています。今回ブログを書いてみたことで、そのずれをどう是正していくのがいいのか考える、いいきっかけになりました。
 僕の都合により、国民審査特集を書けるのは9日までです。情報提供、などという偉そうなことは言えませんが、9日まで、僕の「考える作業」にお付き合いいただけると幸いです。
Posted by l.c.oh - 2005.09.08,Thu
時事通信が、国民審査対象の6裁判官に行ったアンケートをyahooで見つけたので、リンクを貼っておきます。
その1
その2
その3
「(1)「裁判官は世間知らず」との批判や、「社会に情報を発信すべきだ」との指摘をどう思うか(2)死刑制度をどう考え、どう臨むか(3)憲法改正論議をどう思うか。また、望ましい国際貢献のあり方は-の3点」について、6人の考えが寄せられています。


選挙管理委員会から、選挙公報が届いていると思いますが、国民審査の公報も一緒に届くはずです。判事として関係した裁判などはいろいろ難しいことが書いてあると思いますが、そこはこのページを参考にしていただくとして(汗)、裁判官としての心構えなどは、その人柄などを見る上でとても役立つ資料だと思いますので、ぜひ一読をお勧めします。
よくわからない判決については、コメントをいただければ、僕の能力の許す限り対応いたします。ただ、あんまり期待しないでください。
Posted by l.c.oh - 2005.09.07,Wed
 今日は、平成17年6月27日に出された薬害エイズミドリ十字ルート判決を取り上げようと思ったのですが、判決文が見当たらなくて困ってます。堀籠裁判官が関係したケースですが、とりあえず、国民審査公報に書かれていることを手がかりに書いてみようと思いますが、推測で書いているので、嘘かもしれません。推測で書くときはその旨を明らかにしますので、そのつもりで読んでいただけるとありがたいです。


何が問題になったか
 おそらく、刑が重過ぎないかが問題になったと思われます。


裁判所の判断
 重過ぎない(という判断をしたと思われます。)

 堀籠幸男裁判官→重過ぎない(という判断を…)


詳細(といっても、できるだけ簡単に)

 今日は特に、最高裁判所がどのような判断をしたのかあまり明らかでない、ということに留意してください。すみません。

事実関係
 薬害エイズ問題の内容については、報道もかなり詳しくされていたので、多言を要しないところでしょう。薬害エイズ問題については、ミドリ十字ルート(元社長ら3人)、帝京大学ルート(安倍教授)、厚生省ルート(当時の生物製剤部長)の3つが刑事事件になっていますが、この裁判はミドリ十字ルートに関するものです。
 この事件では、元社長らが、非加熱製剤は危ないということを分かっていながら販売を続けたことが問題とされました。高等裁判所では、販売を続けたことに過失があったことが認められ、3人のうち2人(残りの一人は既に亡くなっています)に、執行猶予なしの判決(実刑判決)がでました。
 これに対して、実刑判決は重すぎる、といって最高裁判所に持って行ったのが今回の判決のようです。

法律
 犯罪としては、業務上過失致死罪になります。業務に関することについて、過失で人を死なせてしまったという罪です。「業務」というのは日常用語と異なって、車の運転などを含む広い概念なのですが、今回の事件には関係ないので詳しくは書きません。製薬会社であるミドリ十字が、自分の売っている薬について何かをすることが業務であることは、日常の使い方からも納得できるでしょう。
 「過失」というのは、簡単に言ってしまうと、うっかりしていた、ということです。この概念についても学者の間ではいろいろ難しい議論があるのですが、これも今回の事件とは関係がないようなので、割愛します。とりあえず、「十分な注意を払って人が死んだりする可能性を考え、そのような自体が予測されるときはそれを避ける措置をするべきだったのに、しなかった」ことが過失になると理解しておけばよいと思います。高等裁判所のレベルまでは、エイズになってしまう人が出ることが予測できたかが争いになったようです。これは、事実の話なので、最高裁判所には持っていけません(5日のところを参照してください。)。予測はできた、ということで決着がついたものと思われます。

 最高裁判所では、過失の罪に対して実刑判決は重すぎるのではないかが問題になったのではないかと思います。過失は、うっかりしていた、ということなので、わざわざ人を殺した場合(故意の場合)に比べて罪が軽くなるというのは、一般論として納得のいくところでしょう。日本の刑法は、過失を故意に比べて非常に軽くしか罰していません。これは、国会の、さらには国会を通じた国民の価値判断によるものです。また、実際の判決についても、執行猶予のつかない実刑判決になることはあまりありません。執行猶予がつくということは、執行猶予期間中何か悪いことをしなければ刑務所に入れられることがないということなので、過失を罰するのに、日本がいかに慎重であるかがわかるでしょう。これが、ミドリ十字の元社長らが、刑が重過ぎると主張する背景にあるものです。

 もう1つ。刑が重過ぎる(または軽すぎる)かどうかという判断は、原則として最高裁判所はしません。ただ、「甚だしく不当」な場合、例えば、鉛筆一本の万引きに対して懲役10年の判決が出たような場合には、最高裁判所が何とかすることがあります(刑事訴訟法411条に規定があります)。

裁判所の判断
 恐らくですが、最高裁判所は、上記の「甚だしく不当」な場合にはあたらないと判断した模様です。

評価
 元社長らの過失の重さや薬害エイズ問題が社会に与えた影響などを考えると、実刑判決は重過ぎないという判断は妥当だと思います。判決文がないので、これ以上のコメントはちょっとできませんが。

 ちなみに、帝京大学ルートの安倍英氏の裁判は、地方裁判所で無罪判決が出た後、高等裁判所の審理中に安部氏の認知症のため裁判が停止、2004年に安倍氏が死去し、地方裁判所の判決が確定しました。厚生省ルートについては、地方裁判所・高等裁判所で執行猶予付きの有罪判決が出た後、詳細は不明ですが、まだ裁判が続いているようです。


 甚だ曖昧な部分が多くてすみません。何かご存知の方がいらっしゃいましたら、コメントをいただけると大変助かります。

Posted by l.c.oh - 2005.09.07,Wed
古田裁判官が関係した決定が8月23日にあったようです。
内容は、「少年法20条による検察官送致決定に対しては,特別抗告をすることはできない」というものです。理由も2行しかなく、何も語ってくれない決定ですが、どうやら古田裁判官が裁判長をしたようなので、一応載せておきます。

もう1つ、山形いじめマット死事件の民事裁判で、損害賠償を認める判決が出たようです。
 NIKKEI NETの記事
刑事事件ではいじめをしたと疑われた7人のうち3人のみが処分を受けましたが、民事上は7人全員が損害賠償を認められたことになります。
国民審査の関係では、堀籠裁判官が関係している可能性があります。
実体審理をしなかったようなので、参考にはならないかもしれませんが。
Posted by l.c.oh - 2005.09.06,Tue
 この企画、高々6回ですが、自分ではよく続くものだと感心しております。

 今日は判決に戻りましょう。
 今日取り上げるのは、平成17年7月4日に出された判決です。ライフスペースのいわゆるミイラ化死体事件、「定説」の高橋代表の裁判です。今回国民審査の対象となる6人のうち、3人が関わっています。


何が問題になったか
 「何もしない」ことが殺人になるか


裁判所の判断
 殺人になる(最高裁判所がこれを認めたのは初めてです。)

 中川了滋裁判官→殺人になる(裁判長)
 今井功裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)
 津野修裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)


詳細

 注意は以前2回も書いたので、今日は省略します。

事実関係
 高橋被告は「手の平で患部をたたいてエネルギーを患者に患者に通すことにより自己治癒力を高めるという「シャクンティーパッド」と称する独自の治療(以下「シャクンテォー治療」という。)を施す特別の能力を持つなどとして信奉者を集めていた」(判決より引用)そうです。
 Aさんと息子のBさんはライフスペースの信者でした。Aさんが脳内出血で倒れて入院していましたが、シャクンティー治療を受けさせるため、Bさんが、高橋被告の指示に従って、Aさんを高橋被告の所に連れて行きました。高橋被告は、シャクンティー治療のみを行った(現代医学の見地からすれば、何もしなかった)ため、Bさんは1日後に死亡しました。
 高橋被告は、Bさんを死なせるために、積極的に何かをしたわけではありません。このように、何もしなかった(不作為といいます)ことが殺人になるかが争いになったわけです。

法律
 死なせたことは明らかなので、何が争いになるのかいぶかる方も多いと思いますが、「不作為による殺人」というのは、理論的には結構難しい問題をかかえているところだったりします。ここでは、理論的な正確性は多少犠牲にして、どうして問題になるのかを簡単に説明します。

 「不作為」というのは非常に広い概念です。刑法は何かの行為を取り上げて問題にするものですが、「何もしない」という行為を「何かをする」という行為と同じように扱ってしまうと、大変なことになります。「何もしない」という言葉は語弊があるのですが、とりあえず、何か積極的な行為をしないことだと考えてください。
 よく挙げられる例ですが、プールで子供が溺れている場合を考えましょう。ここでは、例えば、子供の頭を押さえて息ができないようにすることが、刑法で言う「何かをする」にあたります。一方、子供を助けないで傍観していたということが、「何もしない」ことにあたることになります。この場合、子供を助けなかった人全員を、子供の頭を押さえつけた人と同じように殺人罪にしてしまうのはさすがにおかしいでしょう(倫理の問題はとりあえず脇に置いておきます)。しかし、そばにいた父親が、子供を簡単に助けられたのに、子憎たらしい子供だから死んでもいいやと思って何もしなかったとなると、これは問題です。同じ「何もしない」でも、犯罪としたほうがよい場合とそうでない場合があるのです。これは常識にも合いますし、学者の皆さんもこのように考えています。
 そこで、どう線を引くかが問題になってきます。理論的には非常に難しい問題があるのですが、とりあえず、助けるなどの積極的な行為をする義務が(法的に)あるかどうかで分ける、というのが一般的といってよいでしょう。
 このように、不作為が殺人になりうるということはかなり広く受け入れられている考えです。地方裁判所や高等裁判所レベルでは認める判断も数多く出されていますし、明治時代には現在の最高裁判所に当たる機関(大審院)が認める判断をした例もあります。しかし、最高裁判所は、不作為が殺人になることを認めたことはありませんでした。これは、最高裁判所が怠けていたわけではなく、実際に不作為による殺人が最高裁判所で問題になったことがほとんどないという理由によります。

裁判所の判断
 高橋被告の場合は、積極的な行為をする義務があったかがどうか、が実質的に一番争いになりました。この点で裁判所は、高橋被告がBさんの治療を全面的に任されていた点をとらえて義務があったと認めたのです。
 社会的には、高橋被告に義務があったと最高裁判所が認めたことより、初めて不作為による殺人を認めたことの方が大きな意味を持っています。今まで最高裁判所の扱いが分からなかったものが一つ明らかにされたからです。
 また、検察と高橋被告は、不作為による殺人が成立しうるという前提で、そのほかの点について争っていました。不作為による殺人が成立するかどうかは、最高裁判所の立場を明確にするため、最高裁判所自ら積極的に(職権で)取り上げた、という意味でも、この判決は大切な判断です。

 なお、殺人とされるためには、殺す意図(故意といいます)が必要ですが、高橋被告には、Bさんが死んでも構わないという意識(未必の故意といいます)があったとしています。

評価
 僕の極めて個人的な意見です。

 僕は、理論的な関心はさておき、判決自体は当然の帰結だと思っています。今まで判決がなかったのが不思議なくらいです。
 むしろ僕は、最高裁判所が職権で取り上げた、という点を高く評価したいと思います。最高裁判所の立場は、ある行動が裁判になったときにどうなるのか、という予測を立てるために非常に重要ですし、理論を考えていく上でも出発点になることがよくあります。しかし、最高裁判所は今まで、職権で問題を取り上げることにあまり積極的ではなかったという印象があります(一般的な印象です。刑事事件ではそうでもなかったのかもしれません。曖昧なままですみません。)。ここにきて最高裁判所が職権で問題を取り上げたということは、社会(もしくは学者や実務家)の要請に応えて行こうというの姿勢の一つの現われといえるでしょう。この点、この事件に関係した裁判官には一定の評価をしてよいのではないかと思います。

 おまけをもう1つ。高橋被告は懲役7年とされました。ちょっと軽いと感じるかもしれませんが、これは初めて殺人をした人の刑の重さとしては、大体相場に近いと思います。刑は、懲罰ではなく、犯罪者を更正させるために行うという建前があるため、社会の処罰感情と実際の刑はずれてしまうことがよくあります。これは、刑務所の存在をどう考えるか、という非常に重い問題ですので、みんなで考えていくべき課題だと思います。


 今日は分量を少なくして楽をしようと思ったのですが、思いのほか長くなってしまいました。刑事訴訟を扱うのはやっぱり難しいですね。
Posted by l.c.oh - 2005.09.05,Mon
 今日はちょっと趣向を変えて、最高裁判所の役割と国民審査の位置づけについて書こうと思います。

 最高裁判所は、人々の間に起こった法律に関する争いに、最終的に決着をつける機関です。雑な言い方をしてしまうと、現在の制度上、最高裁判所は法律の解釈を担当し、事実があったかなかったかを最高裁判所で争うことはできません。例えば、リスクのある金融商品を買ったときに、商品の内容について説明したかどうかについて(一方は「きちんと説明した」と主張し、もう一方は「そんな説明は受けていない」と主張する場合)は、高等裁判所の段階までしか争うことはできず、高等裁判所が、証拠などから「説明はなかった」と判断したら、それが最終的な判断になります。一方、説明がなかった場合にどのような効果が生じるか(契約が無効になって損害を賠償してもらえるか)を判断するのが最高裁判所の仕事になります。
 また、最高裁判所は、法律や条令などが憲法に違反していないかについても判断することができます(憲法81条に規定があります。)。憲法は日本の法律の最も基本になるもので、憲法に違反する法律はあっても効力がありません(憲法98条1項に規定があります。)。この、憲法に違反しているかどうかを最終的に判断するのが、最高裁判所のもう1つの重要な仕事になります。昨日と一昨日取り上げた判決も、憲法と法律・条令の関係が問題になったものです。

 このように考えると、最高裁判所は普段の生活には全く関係がないようにも思えます。確かに、裁判になって最高裁判所まで争いが長引くようなものは、社会で一般的なものではなく、限界的な事例が多いのも確かです。しかし、そうでもないものも結構あります。
 昨今話題の、「サラリーマン増税」について考えてみましょう。
 国民の反発にもかかわらず、国会でサラリーマン増税法が成立してしまったとしましょう。この場合、法律がきちんとあるので、税務署に文句を言ってみても埒があきません。なぜなら、税務署は、法律のとおりに税金を集める義務があるからです。
 そこで、裁判所に訴えてみることにします。こういう場合は、「サラリーマン増税法はサラリーマンを自営業の人たちなどと差別していて、憲法14条(法の下の平等)に違反している!」と主張することになるでしょう。実際過去に、サラリーマンの給与所得控除が自営業者に比べて少ない、といって裁判になったことがあります(いわゆるサラリーマン税金訴訟、昭和60年3月27日の判決です。)。このときは不平等ではない、という結論になったのですが、今はとりあえず、最高裁判所で認められ、サラリーマン増税法は憲法違反、という判決が出たとします。すると、この法律は効力がないことになるのです。(「効力を有しない」という言葉をどのように考えるかは、学者の方々の間でも考え方が分かれていたりします。わかりにくいですが、憲法違反とされた法律は、判決によってすぐに廃止されるわけではない、と考えるのが法律の世界では一般的です。)
 他にも、校則で坊主頭を強制したことが憲法に違反しないか問題になった事件や、定年を男性55歳女性50歳としていたことが憲法違反とされて、慌てて会社が男女平等にした事件など、最高裁判所がする仕事は、日々の生活にかなり関係が深いものも多いのです。
 さらに、こと憲法が関係するものに関しては、裁判所は国会より強いのです。先ほどのサラリーマン増税の場合に、国会が「サラリーマン増税法は憲法違反ではない」と頑張ったとしましょう。税務署も頑張って税金を取り立てたとします。ところが、税金を取られたサラリーマンの人が裁判所に文句を持っていくと、国はまず間違いなく負けて、取った税金を強制的に返還させられることになります。そうなると、国としては法律を使うことができなくなり、法律を廃止せざるをえなくなるでしょう。
 また、最高裁判所の判断は、法律の世界では非常に強い力を持っています。最高裁判所に従わないと、裁判で負ける可能性が非常に低くなってしまうからです。(全く勝てないわけではありません。最高裁判所が「前の判断は間違っていたので訂正します」という判決を出せば、勝てることもあります。しかしこれは極めてまれです。)

 このように強い力を持っている(と言ってもいいでしょう)最高裁判所の裁判官は、選挙で選ばれるわけではありません。また、国会や首相が最高裁判所のすることに文句があったとしても、裁判官をくびにしたりすることは基本的にできません(司法権の独立の1つの要素)。
 そこで、最高裁判所がとんでもないことをしないように監視するため、国民審査という制度が作られたのです。
 ただ、法律の知識がない人が、最高裁判所の裁判官がふさわしいかを判断するのはやはり難しく、廃止するべきだという話もちらほら出ています。しかし、この制度があると、裁判官は社会の常識からかけ離れたとんでもないことをすることは少なくなると考えられます。また、実際に罷免されないまでも罷免すべきとする票が一定の数集まるとなると、その裁判官は、「ちょっとずれてるかも」と反省する機会にもなります。(情報提供がすすんで皆さんがきちんと判断する材料が整えば、実際に罷免される裁判官も出てくるかもしれません。)
 このように、国民審査は、法律の世界の常識と、社会の常識を調整する役割を担っているのです。


 ちょっと誤解を招きそうなので補足しておきます。
 国会議員は選挙で選ばれるので、国会が裁判所よりずっと社会の常識=民意を反映していることは間違いありません。そこで、裁判所は基本的に、国会が決めたことは十分に尊重する必要があります。法律が最高裁判所によって憲法違反とされるということは、その法律がよほどひどいということだと考えてよいでしょう。


 とまぁ、こんな感じですね。
 なんか本格的に「…で?(それがどうした)」っていう内容になってきている気がする。
 誰か読んでいる人いるのかしら?

Posted by l.c.oh - 2005.09.04,Sun
 今日取り上げるのは、平成16年10月14日に出された判決です。これは、今回国民審査の対象となっている才口裁判官が反対意見を述べたということで、取り上げます。全文が最高裁のHPにないので、松山大学の先生の所にある判決文にリンクを貼っておきます。


何が問題になったか
 非嫡出子の相続分が嫡出子の相続分の二分の一とされていることが、憲法14条に違反しないか


裁判所の判断
 違反しない(ただし、5人の裁判官のうち2人が反対)

 才口千晴裁判官→違反している


詳細(といっても、できるだけ簡単に)

 昨日と同じ注意を書きます。
 まず、この判決だけで、才口裁判官の投票を決めてしまうのは危険だと思います。他のさまざまな要素を考慮して決めてください。
 もう1点、なるべく客観的に分かりやすく書くのが目的ですが、どうしても僕のバイアスが入ってしまう点があります。それはご容赦ください。

事実・法律
 憲法14条は、法の下の平等を定めています。ここでは、民法900条4項が、「嫡出でない子の相続分は嫡出である子の相続分の二分の一と」するという条文が問題になりました。この条文は、嫡出子と非嫡出子を不当に差別するものではないかと主張されたわけです。
 嫡出子というのは、単純に言うと、結婚している夫婦の間に生まれた子供のことです。普段の生活を一緒にしていても婚姻届を出していないと、ここで言う「結婚している夫婦」にはなりません。あと、結婚していないうちに生まれた子供でも、後で親同士が結婚すると嫡出子になります(「準正」といいます。)。両親が離婚しても、嫡出子でなくなることはありません。他にもいろいろ細かい決まりがありますが、とりあえずはこれだけ言及しておけば十分でしょう。
 非嫡出子というのは、嫡出子でない子供のことです。日本では、「婚外子」とも呼ばれます。家族という枠組みが法律の世界でも非常に重視されていた明治以降の日本では、非嫡出子は「不義の子」として厳しく差別されてきました。しかし、近年非嫡出子は増加傾向にあり(1980年に0.8%→2001年に1.8%)、家族の枠組みの流動化・個人主義の普及により、非嫡出子の権利を守ろうという動きが活発化しています(例えば、以前は戸籍に「非嫡出子」と書いていましたが、非嫡出子に対する差別を助長するということで、今は嫡出子も非嫡出子もみんな「子」と書くようになりました。)。
 なお、民法900条4項が使われるのは、原則として遺言を書いていない場合です。遺言を書いている場合にもちょっと影響があったりするのですが、難しいので割愛します。

裁判所の判断
 今日取り上げる判決では、裁判所は実質的な判断をしていません。平成7年7月5日に出した判決を引用して、判断は変えませんよ、と言っただけです。
 平成7年の判決の論理は、単純化すると以下のようなものです。

日本の相続に関する法律は、法律上結婚している夫婦を大事にしている(妻と子をまず相続人とする、妻が半分相続するなど。とりあえず、法律婚主義と言っておきます。)
 ↓
一方で、法律上結婚していない夫婦の子(非嫡出子)であっても、憲法14条により、なるべく平等に扱うべし、という要請がある
 ↓
非嫡出子の分け前を0でもなく1でもなく二分の一としたのは、法律婚主義と憲法14条の要請のバランスをとったもの
 ↓
(補足的に)非嫡出子にきちんと分け前を与えておきたいなら、遺言を書けば事足りる
 ↓
非嫡出子と嫡出子を分けたのは、きちんとした理由がある
 ↓
民法900条4項は憲法14条に違反しない


 このような裁判所の考え方に対し、H16年の判決で、才口裁判官が反対意見を述べました。その論理は以下のようなものです。

憲法14条は法の下の平等を定め、憲法24条2項は個人が尊重されるべきと定めている
 ↓
憲法は、性別や長男であることなどで相続に差をつけてはならないとしている、と考える
 ↓
(補足的に)平成7年の判決が出てから(この判決の時までに)9年以上経っていて、その間に人々の意識や社会の状況も大きく変わったのだから、平成7年の判決のような考え方が今でも有効だとは考えにくい
 ↓
法律婚主義は確かに大事にするべきだが、その方法として相続に差をつけることは、自分ではどうにもならない事情により差別されることであり、憲法14条に違反する

評価
 僕の極めて個人的な意見です。

 僕は、基本的に才口裁判官の意見に賛成です。
 裁判所の考え方にあるバランス論も、考えとしては一定の納得ができるところではあるのですが、これは、「半分もある」と考えるか「半分しかない」と考えるかの違いであって、今の社会には「半分しかない」という考え方のほうが適合的なのではないかと考えています。遺言を書いておけばいい、というのも、便宜的な気がします。
 もう1点。とりあえず遺言を無視して考えます。現在は、子供を嫡出子にする(前述の準正)ためだけに結婚することは認められていません(無効事由になる。昭和44年10月31日の最高裁の判断。)。となると、相手と法律上の結婚をすることは考えていないが、子供にはきちんと相続をさせたいという要望は、叶える余地がないことになります。わがままと言ってしまえばそれまでですが、それなりの事情(たとえば、婚姻届を出してしまうと、免許証などが夫婦同姓になってしまい、どちらかの仕事に支障が出るなど)も考えられるので、できればこのような要望にも応えられることが望ましいのではないでしょうか。

 なお、日本の非嫡出子の割合は、国際的に見ると非常に低いもののようです(スウェーデンでは50%超、アメリカなどでは30%前後だそうです。)。この背景に、非嫡出子に対する社会の評価や法律上の差別的な取り扱いがあることには留意する必要がありそうです。

 ちなみに、この900条4項は随分前から改正が取り沙汰されていて、改正案までできたのですが、夫婦別姓の議論に巻き込まれて一緒に葬り去られてしまったという経緯があります。また、最高裁判所でも、平成7年には賛成10人対反対5人だったものが、平成15年と平成16年には3対2になり、わずかながら徐々に拮抗してきています。いずれにせよ、近々法律が改正されるか、裁判所の考え方が変更されるでしょう。


 補足的な部分が随分と多くなってしまいました。全部読んでくださった方、本当にありがとうございます。少しでも参考になればうれしいです。
 明日は、判決ではなく、最高裁判所の役割についてちょっと考えてみようと思います。
 不明確な点や分からない点、評価に対する評価などは是非コメントをお寄せください。
Posted by l.c.oh - 2005.09.03,Sat
 今日取り上げるのは、平成17年1月26日に出された判決です。これは、今回国民審査の対象となっている人が関係した唯一の大法廷判決です。全文は、最高裁判所のHPにあります。
 ちなみに大法廷判決というのは、最高裁判所の15人の裁判官が全員参加した裁判のことで、極めて重要な事件や、最高裁判所が前に出した判決の考え方を変更するときに開かれます。

 かなり長く書いてしまったので、時間のない方は「詳細」の手前まで読んでいただければごくごく概要は分かるかと。


何が問題になったか
 東京都が「日本人以外は管理職に昇進する試験を受けられません」としていたことが、法の下の平等を定めた憲法14条と、それの労働法上の現れである労働基準法3条に違反していないか


裁判所の判断
違反しない

才口千晴裁判官→違反しない(裁判所の判断に同意)
津野修裁判官→違反しない(裁判所の判断に同意)
(この判決が出た当時は、今回の国民審査の対象になる裁判官はこの2人しかいませんでした。)


詳細(といっても、できるだけ簡単に)

 まず、この判決だけで、才口裁判官と津野裁判官の投票を決めてしまうのは望ましくないと思います。他のさまざまな要素も考慮して決めてください。
 もう1点、なるべく客観的に分かりやすく書くのが目的ですが、どうしても僕のバイアスが入ってしまう点があります。それはご容赦ください。

事実関係
 東京都で保健婦(公務員)として働いていたAさんの国籍は韓国籍でした。国籍は韓国籍ですが、日本に永住する特別永住者です。ちなみに、特別永住者とは、終戦以前から日本に住んでいて、サンフランシスコ平和条約によって日本国籍がなくなってしまった外国人とその子孫で、日本に永住することを許可された人たちです。特別永住者は一般的に、生活の本拠が日本にあり、現在では国籍国とのかかわりは非常に薄くなっていることが多いようです。
 当時東京都は、管理職になるためには資格試験に受かることが必要で、これに受かると、受験した分野(医療や技術など)以外の管理職にも就けるという仕組みになっていました(現在はどうなっているか分かりません。)。
 Aさんが、平成6年と7年に管理職昇進のための資格試験を受けようとしたところ、日本国籍ではないということで、試験をうけられませんでした。結果として、Aさんは、公務員としてそれ以上の昇進ができないことになりました。

法律
 憲法14条は、「国民」が法の下に平等であって、人種などによって差別されないと定めています。これを受けて、労働基準法3条は、使用者が労働者を国籍によって差別してはいけない、と定めています。外国人は正確には「国民」にはあたりませんが、法の下の平等は何も国の枠に留まるものではない(前国家的権利と言われます)ので、権利の性質によっては外国人にも保障されると一般に考えられています。
 この事件で問題になったのは、外国人が日本の地方公務員の管理職になる権利が日本人と同様に認められるか、という点です。まず、前提となる、外国人が公務員になる、という点については、憲法は権利として保障してはいないが、禁止もしていない(=法律や条例で認めることはOK)と考えられています。しかし、外国人であるがゆえに、できる仕事は限られている、というのが一般的な考え方です。それは、憲法が国民主権(国のあり方は最終的に国民が決めるという考え方)をとっているため、国の重要な決定や政策を外国人にまかせるわけにはいかないからです。政府は、「公権力の行使または国家意思形成の形成への参画にたずさわる公務員」は日本人に限る、としています。いまいち漠然としていますが、とりあえずは、重要な仕事はできませんよ、ということだと考えておけばよいと思います。ちなみに、裁判所は政府に従う必要はないので、この見解に反対することもできます。
 さらに、採用の段階では外国人が公務員になる権利は保障されていませんが、いったん採用された後であれば、外国人であるというだけで不当に差別することは許されません。これは労働基準法3条が明確に国籍による差別を禁止していることからもわかります。
 東京都は、外国人は一律に管理職になれないという扱いをしていました。管理職といってもいろいろな種類があり、その中には重要でない仕事(というと嘘ですが、要は上の政府の見解に当てはまらない仕事)もあるので、それを一切させないというのはおかしいのではないか、というのがAさんの主張の中心で、一番争いがあったところのようです。

裁判所の判断
 裁判所は、上の政府見解を、多少丁寧にした上で、ほとんどそのまま受け入れました。論理としては、

公権力の行使または重要な施策に関する決定
 ↓
住民への影響が大きい
 ↓
こういう仕事の責任は、国民主権によって住民に対して最終的な責任を負っている日本人が担当するべき
 ↓
外国人はこういう仕事はできません

ということになります。
 その上で、管理職の種類によって分けるかどうかは東京都が決められることで、分けなかったからといって憲法や労働基準法には違反しないよ、という判断をしました。これは、人事のやり方は東京都が自分で決められる部分があり、その範囲の中に、管理職をその種類で分けて試験をするかや、外国人に受験資格を与えるかどうかが含まれる、ということです。

 才口裁判官と津野裁判官は、このような裁判所の判断を「正しい」と判断したわけです。


評価
 僕の極めて個人的な意見です。

 僕はこの判断にはちょっと疑問を持っています。
 裁判所の判断のなかでは、Aさんが特別永住者であるという点が全くといっていいほど考慮されていません。外国人といっても、日本に旅行に来た人・留学している人から、生活の本拠地が完全に日本になっている人までさまざまです。特に、特別永住者の場合は、歴史的な経緯もあり自己のアイデンティティ主張のために国籍は外国にしてあるものの、日本語しかしゃべれないような人もたくさんいるそうです。このような人たちには、もうちょっと柔軟に対応してもよいのではないかと考えています。
 藤田宙靖裁判官(今回は国民審査の対象ではありません。)が補足意見のなかで特別永住者を他の外国人と別の取り扱いをする必要はないという意見を述べています。理由としては、特別永住者は日本国内に「在留することのできる地位」があるだけであること、他の法律でも特別永住者を特別扱いしているものはないことをあげています。しかし、これは社会の実態からずいぶんと離れてしまっていると思います。また、裁判所は国会に物申す権利がある(このケースについては国会に裁量があるとしても、裁量権の逸脱と構成する余地もあると思います。)ので、他の法律が特別扱いしていないからといって、別の扱いが望ましいのであれば国会に文句をつけるべきだと思います。
 もう1点。公務員になる権利を制限する理由として国民主権をあげるのも的外れだ、という批判がされています。ドイツでは、「行政においては、国民意思の形成ではなく、その実施が重要である」ので、国民意思の形成という国民主権の考え方から公務員になる権利の制限を説明するのはおかしい、と考えられているようです(憲法判例百選 〔第4版〕P.15←amazonに飛びます)。公務員になる権利と選挙ができる権利とは大きな違いがあると僕は考えているので、このような批判ももっともだと思います。

 ずいぶんと長くなってしまいました。全部読んでくださった方、ありがとうございます。少しでも参考になればうれしいです。
 明日もこんな感じで、非嫡出子の相続分の判決を取り上げようと思っています。
 不明確な点や分からない点などにはぜひコメントをお寄せください。


 ちなみに、親知らずを抜いたところは強烈に腫れ上がっていて、漫画みたいになってます。痛みはだいぶなくなったので、明日中には何とかなりそうな気配です。
 見た目ほどしんどくはないのですが、周りの人が何かと気を使ってくれるので、楽させてもらってます。

僕が(一部)書いた本が出版されました
yanagawasemi
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これからの金融がわかる本
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