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Posted by - 2025.11.03,Mon
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Posted by l.c.oh - 2005.12.02,Fri

内田 貴

契約の再生


 名著の呼び声の高い、内田貴東京大学教授の本です。
 2~3年前読んだことがあるのですが、当時は民法をほとんど理解していなかったので、ある程度体系が頭に入ったところで再読しました。

 大学の民法の授業で恐らく最初に教えられる、一番単純な形の契約(例えば、単純なものの売買)を基礎として作り上げられた「古典的契約理論」が、現実に適合しなくなっている、という問題意識のもと、代替的な理論枠組みを模索するアメリカでの議論を紹介しています。中でも、内田教授の依拠する「関係的契約理論」の紹介に重きが置かれています。
 日本の民法の解釈論へのインパクトについては、あまり紙幅が割かれていません。これについては、10年後に書かれた『『契約の時代―日本社会と契約法 』という本で詳細に扱われているようですが、僕は読んだことがないので、なんともいえません。
 内田教授は恐らく、アメリカの学界のような活発な議論が、本書をきっかけに起こることを期待していたのだと思います。でも実際はあまり議論がなされたような印象はありません。本書が発行されたのは1990年ですが、90年代の社会的な変動のため、このような基礎理論に十分な時間を使えなかったのではないかと思います(僕の知らないところで大きな議論を呼んだのかもしれませんが。)。

 文章は、内田民法(教科書)のように、法律書の中では非常に読みやすい部類に入ると思います。ただ、書いてある内容は結構高度なので、民法を一通り勉強してからでないと難しいでしょう。

 「関係的契約理論」の肯否や、具体的解釈論の妥当性はともかくとして、内田教授の分析は非常に鋭い点を突いているところがあると思います。特に、日本民法の解釈論における「形式論vs実質論」の分析(本書の議論の中核とはちょっと離れているところですが。)は、個人的にとても興味深い。これについては、(誰も読まないであろうことを覚悟の上で、自分の思考をまとめるために)おいおい書いてみたいと思っています。

12月1日 通学中に読了
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Posted by l.c.oh - 2005.10.17,Mon
 小泉首相が靖国神社を参拝しているようです。

 今回の参拝は、
1.一般の人と同じように、本殿に入らずに参拝すること
2.私人として参拝すると明言していること
3.参拝の方法(礼や拍手)について、靖国神社の方式に従わなかったこと
4.献花をしなかったこと
 などが特徴的です。
 憲法との関係で言うと、公的な参拝とはされないように意識した参拝といえるでしょう。

 裁判に関していえば、今回の参拝であれば、参拝が「私的」とされ、国の機関の行為とされない可能性が高く、憲法違反とはされにくいといえます(10月3日 と4日 に書いたエントリ参照。1番目の要件で切られる)。
 ただ、現在最高裁に継続している訴訟は、以前の参拝が対象になっているため、今回の参拝が判決に影響を与えることはありません。また、今回の参拝も、政治的公約の実施としてなされたこと等を重視するのであれば、憲法違反となる余地はあります。

 中国や韓国もおそらく強い反発を示すことでしょう。ちょっと心配です。
Posted by l.c.oh - 2005.10.11,Tue
 死刑について、重要な最高裁判所の判断を忘れていたので、懲りずに書くことにします。

 死刑は普通、憲法36条との関係で議論されます。

憲法36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。


 法の解釈で、死刑が「残虐な刑罰」にあたるかが問題になるのです。

 これについて、最高裁判所は、憲法施行間もない昭和23年に有名な判断を出しています(昭和23年3月12日大法廷判決憲法判例百選 (2) 262頁。本稿は、この判例百選の解説に依拠しています。)。
 この判決は、冒頭で、「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い。死刑は…まことにやむを得ざるに出ずる窮極の刑罰である。」として、死刑を否定するような論調で始まりますが、結論としては死刑を合憲と判断しています。人一人が国家によって確実に死ぬのですから、それなりの根拠(判例百選の解説は、「反論の余地がないほど合理的で明確な根拠が要求されよう」としています。)が必要になりますが、最高裁判所は、根拠として、1.「死刑の威嚇力によ」る「一般予防」、2.「特殊な社会悪の根元を絶」つこと、3.国民感情(3.は主に補足意見)の3つをあげています。

 以前どこかで書いたかもしれませんが、日本を含め憲法は、個人の尊重と国家への不信をその一番基本においています。そこで、国家により個人が侵害される死刑のような場合には、慎重な態度がとられています。そこで、死刑の存続には、それを残すことが必要やむをえないという理由が必要です。その理由として、最高裁判所は上記の3つをあげたと言えます。

 まず1については、死刑に威嚇力による一般予防効果(=死刑になるぞ、と国民を脅すことで、犯罪を抑える力)があるかどうかはあまりはっきりしません。国内外含め、特に統計的な手法を用いて多くの研究がされていますが、多くは死刑による抑止力なし、という結論に至っているようです。「数多くの研究にも関わらず、死刑の抑止力は証明されていないことは、少なくとも確かである(判例百選II 263頁)」というのが現実のようです。したがって、これは死刑存続論の根拠にはなりにくいといえます。

 2については、最高裁判所はこれを死刑存続論の根拠として持ち出しています。
 一方、判例百選の解説は「無期刑によって目的を達しうる」としか述べていません。
 しかし、「無期刑によって目的を達しうる」という主張にはちょっと疑問があります。「特殊な社会悪の排除」という観点から見ると、無期刑に死刑と同等の効果を求めるためには、仮出獄なしの無期刑(どんなことがあっても死ぬまで刑務所から出られない)を用意する必要があります(アメリカなどでは例があるようですが、今の日本にはありません。)。このように刑務所で生殺しの状態で生きながらえるのと、死刑になるのとでは、どちらが「残虐な刑罰」であるか、微妙ではないかと僕は思います。刑務所の収容人員の限界や、財政的な問題もあります。このように考えると、「無期刑でいいじゃん」という主張は死刑廃止論の根拠としても弱いと思います。
 「特殊な社会悪の排除」が死刑存続論の根拠になるかどうかは、それを確保する手法で死刑よりも残虐でない刑罰が考えうるか、という点にかかってきます。ただ、代替的な案が考えられており、それと死刑が(僕が考えるところ)あまり差がないと思われる以上、積極的に死刑を肯定する根拠としては、強く主張しにくいところです。

 3.の国民感情というのは、扱いが非常に難しいものです。世論調査によれば、死刑存続を支持する声が強いのは確かなようです。ただ、法律家たるもの、国民の多数決に従えばいいというものではありません。確かに、国民の多数意見というのは最も重要な道しるべになります。しかし、歴史的に多数派による少数派の侵害の例が非常に多かったこと(枚挙に暇がありませんが、時代的に近い例で言えば、一応民主主義国であったドイツでナチスがユダヤ人になしたことを思い出していただくとよいでしょう)の反省に基づいて、憲法は少数派の人権保護も重要な役目としています(この項との関連で言うならば、被告人の人権保護になるでしょうか。)。その担い手は、やはり法律家なのだと僕は思っています。
 要は多数派と少数派の間でどのような位置を自分が取るかのバランス感覚の問題だと思いますが、このように考えると、死刑存続を支持する世論が強いというだけでは、死刑存続論の法的な根拠にはなりにくいと思います。

 結局、昭和23年判決の最高裁判所の論理は、死刑存続を認める根拠としては弱い、というのが僕の結論です。


 この判決以後、死刑囚の冤罪事件の発生や国際的な死刑廃止の潮流の中で、世論においても死刑廃止論が非常に強く主張された時期がありました。
 一方最近は、犯罪被害者の感情を法的に評価しようという新しい視点も提示されており、自分の判断にどのように反映させるべきか苦慮しています。
 例によって、判断は留保です。
Posted by l.c.oh - 2005.10.07,Fri

柳 美里

石に泳ぐ魚


 柳美里の「話題作」。柳美里の本は、『家族シネマ』と『ゴールドラッシュ』しか読んだことがないのですが、それらと同じく、強い負のエネルギーが内心に向かって凝縮されたような本という印象をうけました。

 この本は、戦後日本で、文芸作品として初めて出版の差し止めが認められた本です。主人公の親友として登場する「朴里花」のモデルとされる人が、自分の顔面の描写等について名誉毀損の訴えを起こして認められたためです。
 この裁判は、作者が日本を代表する作家であったこと、事前差し止めという厳しい措置が地方裁判所レベルから一貫して認められたことなどから、法律の世界では非常に話題になった裁判です。今回文庫化された本は、裁判の過程で提出された、顔面の描写等をマイルドにした改訂版です(帯にある「言葉は葬られた」というのはそういうことです。)。
 出版の差し止めについては、憲法や裁判所は非常に慎重です。なぜなら、出版されないということは世間の目に触れないということになるので、 いいか悪いか批評する余地がなくなってしまうからです。すなわち、国家による言論統制につながる可能性があります(明治時代にはそうなっていました。)。憲法の保障する表現の自由は、この言論統制を防止するという意図もあるのです。
 そこで、出版差し止めが認められるためには、いったん公表されてしまうと、被害者に重大で回復困難な被害が生じる場合に限られます。この本では、プライバシーの侵害と表現の自由がぶつかったわけですが、裁判所はプライバシーを勝たせ、出版差し止めを認めました。表現の自由とプライバシーとは、ある意味、一般的な利益と個別的な利益の関係に立ちます。裁判所は、個別的な利益をより重視した、と見ることができそうです。
 裁判所がした議論はある程度説得力がありますし、事前差し止めに関する裁判所の論理から演繹的に結論を出すとすると、結論にも納得がいくところです。ただ、一読者としてみると、削除された部分がなくなってしまったことは、この本の価値を少なからず損なっているようで、残念でもあります。

 本自体の話をほとんど書いていませんね。全体に、重い雲に塗りこめられた空のような小説です。構成や日本語はよくできているので、読みにくい本ではありませんが、法的な議論もあいまって、いろいろ考えさせられる小説でした。

10月7日 出先で読了。
おすすめ度:★★☆☆☆
Posted by l.c.oh - 2005.10.06,Thu
 小泉首相の靖国神社参拝違憲訴訟で、高松高等裁判所の判決がでました(下はNIKKEI NETの記事)。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20051005STXKD031805102005.html

 高松高等裁判所は、3.憲法判断回避の準則により、憲法判断を下しませんでした(詳細については、10月4日のエントリを参照してください。)。

 これによって、9月29日の東京高等裁判所判決、9月30日の大阪高等裁判所判決、10月5日の高松高等裁判所判決と、高等裁判所レベルで完全に3つに分かれました。高松高等裁判所で判決を受けた原告は上告をするようなので、最高裁判所の判断が非常に注目されます。ただ、10月4日のエントリでも若干言及したように、特に最高裁判所は憲法判断回避の準則を忠実に守る傾向が強いので、高松高等裁判所の判断と同様の判断が出る可能性が高いでしょう。

 
Posted by l.c.oh - 2005.10.04,Tue

昨日の続きです。


3.憲法判断はなるべく避けるべきだ、という準則に引っかからないか


 裁判所が判断をするにあたって、従うべきルールがいくつかあります。その中に、「憲法判断回避の準則」と呼ばれるものがあります。これは、いくつかのルールの集合体なのですが、よく問題になるのは、「裁判所は、…もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合には、その憲法問題には判断を下さない」というルールです。
 学者の皆さんの間では、このルールが絶対的なものかどうかについて論争があります。ルール自体を否定する方から、絶対に従わなければならないとする方までさまざまですが、基本的にこのルールを尊重しつつ事情や環境によってはこのルールを破ってもよいという考え方が最も賛同者が多いようです。
 これに対して裁判所は、このルールを絶対視する傾向が強かったと言われています。例えば、自衛隊が憲法違反かどうかなど、このルールにより遮断され判断が下されていない憲法問題はたくさんあります。


 今回のケースでは、信教の自由に対する侵害はないとして、損害賠償は認められませんでした。つまり、首相の靖国神社公式参拝が憲法違反かどうかは判断しなくても、損害賠償事件を処理することはできた、ということです。今までの小泉首相参拝の損害賠償事件のほとんどは、「損害賠償はどっちにしろ認められないのだから、参拝が憲法違反かどうかは判断する必要はない」という理由で、憲法問題に踏み込まないものが多かったようです(判決文が入手できなかったので何とも言えませんが。)。また、今回の事件の地裁判決も、同様の理由で憲法判断には踏み込んでいないようです。
 大阪高等裁判所の判決は、(合憲にせよ違憲にせよ)憲法判断をしたこと自体で、なかなか興味深い判断と言えるでしょう。


 「憲法判断回避の準則」は、日本国憲法が付随的違憲審査制をとっていることが根拠とされます。付随的違憲審査制とは、憲法判断は問題になっている事件の解決に必要な限度でのみ行うというもので、アメリカの制度に倣ったものです。「憲法判断回避の準則」自体も、別名「ブランダイス・ルール」といわれるように、アメリカの裁判官が定式化し、アメリカで普及してきたものです。
 「付随的違憲審査制→憲法判断回避の準則」という論理は現行憲法においては非常に説得的です。ただ、最近の司法制度改革の流れの中で、「裁判所の持つ情報提供作用→国民の法的予測可能性の向上」という視点も重視されてきているように僕は感じています。また、憲法判断回避の論理も、法律学の形式性を感じさせ、国民の理解を得るのは難しいと思います。
 裁判所、特に最高裁判所は、「憲法判断回避の準則」にあまりに縛られることなく、積極的に憲法判断を下していくべき社会状況になってきているのではないでしょうか。


Posted by l.c.oh - 2005.10.03,Mon
 事実については、おそらく説明の必要がないでしょう。小泉首相が靖国神社を繰り返し参拝したことが、憲法に違反するかが問題になった事件です。

 靖国裁判においては、違憲判決をとるためにハードルが2つ、さらに、裁判所が憲法についての判断を出してくれる前提として1つハードルがあります。前者は、
  1.内閣総理大臣の参拝が公的なものであるか
  2.これが憲法に違反するか
というもので、後者は
  3.憲法判断はなるべく避けるべきだ、という原則に引っかからないか
というものです。1.と2.は憲法の解釈という実体法の問題、3.は憲法訴訟という手続法の問題という整理ができます。
 以下、順にみてみましょう。


1.について

 まずは、憲法の規定です。

憲法20条3項
国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない


 ここで宗教的な行為が禁止されているターゲットは、「国及びその機関」です。言い方を変えれば、公的な機関が宗教的な行為をすることだけが禁止されています。もし個人であれば、宗教に関することも基本的に自由にできます。私的な行為であれば、憲法には引っかからないのです。
 そこで、首相が靖国神社に参拝することが、「国の機関」が行った行為だと言えるかが問題になってきます。首相の完全に個人的な宗教的行為であれば、問題にはなりません。例えば、首相が近所の神社に家族と初詣に行ったからといって、憲法違反にはならない、というのは、常識的な考えだといえるでしょう。「国の機関」が行ったかどうかは、参拝が、内閣総理大臣の仕事として行われた(いわゆる公式参拝)かどうかによります。

 小泉首相は、参拝が公的なものであるか私的なものであるかを明言してはいませんでした。しかし、大阪高等裁判所は公的な参拝であるとしました。これは、高等裁判所のレベルでは初めての判断です。理由は、公用車を使い秘書官を連れていたこと、公約の実行としてされたという点で政治的な意図が強いことなどが挙げられています。
 なお、前日(9月29日)に出された東京高等裁判所の判決では、献花のお金は私費から出ていること、終戦記念日を避けているため政治的な意図は小さいことなどを根拠に、個人的にしたことだから「国の機関」が行ったことではない、として、憲法に違反しないという判断をしています。この点について、最高裁判所の判断はまだありません。


2.について

 もう一度憲法の規定を見てみましょう。

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない

 憲法をそのまま読むと、国が宗教に関係することが全くできないように思えます。しかし、国と宗教との関係を完全にゼロにすることは不可能です。例として私立学校への補助金を考えてみると、国と宗教との関係をゼロにするために、上智大学のように宗教団体が作った学校に補助金を出さないとなると、今度は憲法14条(法の下の平等)違反になってしまいます。
 そこで、憲法で禁止されているのは、国と宗教との関わりがある程度濃いものだけだ、と考えられています。どの程度までが禁止されているかは学者の間でも争いがあります。最高裁判所は、国がした行為の「目的が宗教的意義をもち」、その行為の結果、特定の「宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような」ものが禁止されていると考えています(津地鎮祭事件大法廷判決、昭和52年7月13日)。目的と効果を考えているので、「目的・効果基準」と呼ばれます。例えば、この津地鎮祭の場合、地鎮祭は社会の習慣になっているという意味で「目的が宗教的意義をもつ」わけではないし、取り立てて神道の普及にプラスの影響を持たず、他の宗教を弾圧する効果もない、ということで、憲法違反にはされませんでした。

 そして今回のケースです。大阪高等裁判所はまず、靖国神社の儀式の形式に従って参拝がなされた点などから、目的を「宗教的意義」があるものと認めました。さらに、国内外の強い批判の中で、強固な意思に基づいて参拝している点などをとらえ、国と靖国神社のみに特別の関係があるような印象を与えたとし、効果が特定の「宗教を助長、促進」するものだと認めました。結果として、小泉首相の靖国神社参拝は憲法違反だという結論になったわけです。
 今までの裁判ではそもそも②の点についての判断に踏み込んだものはほとんどない(1.や3.で切られてしまって、この判断までたどり着かないものが多い)のですが、憲法違反(またはその疑いが強い)とする判決は高等裁判所のレベルでも結構出ていました(中曽根首相の公式参拝について、やはり大阪高等裁判所が平成4年に同様の判決を出しています。)。ただ、小泉首相の参拝については、今まで高裁レベルで2.の判断をしたものがなかったので、今回メディアに大きく取り上げられたのです。
 2.についても、最高裁判所の判断はまだありません。判断が待たれるところです。


結構な分量になってしまったので、今日はこれくらいにしましょう。3.についてはまた明日。
Posted by l.c.oh - 2005.09.30,Fri
まず1つ目。
 小泉首相の靖国参拝は違憲・大阪高裁判決→NIKKEI NETの記事
これについてはちょっと詳しく書いてみたいのですが、この土日はちょっと時間がないので、早くて日曜の夜以降になります。


2つ目。
 「一太郎」訴訟、松下が逆転敗訴・「特許は進歩性なく無効」 →NIKKEI NETの記事
特許もおいおいまとめてみたいテーマですが、これも後ほど。

先延ばし。易きに付いてしまっている。よろしくないのはわかっているのですが…
Posted by l.c.oh - 2005.09.27,Tue
 裁判には、民事訴訟・刑事訴訟・行政訴訟があるのをご存知でしょうか?
 このなかで、行政訴訟はちょっと特殊な形態なので、今日は民事訴訟と刑事訴訟について軽く書いてみたいと思います。

 例として、Aさんが、Bさんの運転する車に轢かれて大怪我を負った場合を考えてみます。
 この場合、Bさんが訴えられる可能性としては、2つの種類があります。
 1つ目は、Aさんが、治療費などの賠償を求めてくる場合。Aさんが賠償を求められる根拠になるのは、不法行為という民法の規定(709条)ですので、これは民事訴訟になります。
 2つ目は、国がBさんに刑罰を課するべきと訴える場合。この根拠になるのは、普通は、刑法の業務上過失傷害罪(211条)ですので、これは刑事訴訟になります。

 民事訴訟と刑事訴訟では扱いが大きく異なります。その根本的な違いは、民事訴訟が一般人同士の争いに裁判所が決着をつけるものであるのに対し、刑事訴訟は国が一般人に刑罰という不利益を負わせるのが正しいのかを判断するものだ、という点にあると考えられます。
 結果として、訴訟の目的も違ってきます。民事訴訟は結局のところ、争っている人たちが納得すればそれで良いわけです。上の例で言えば、BさんがAさんに100万円払うということでお互いが納得したのであれば、別に裁判所が判断する必要はないのです。
 一方、刑事訴訟ではそうはいきません。やくざの親分Bさんの身代わりに子分のCさんが捕まったとき、お互いが納得しているからといって、Cさんを刑務所に入れるわけにはいかないでしょう。刑事訴訟では、本当は誰が何をしたのかを明らかにすること(真実発見)が非常に重要になってきます。さらにこれは、刑罰という非常に大きな不利益を一方的に負わせるものなので、真実発見のプロセスは極めて慎重にする必要があります。

 具体的な違いは本当に挙げきれないくらいあります。
 まず、裁判所の中で扱う部署が違います。最高裁判所はちょっと違いますが、地方裁判所と高等裁判所では、民事訴訟は民事部、刑事訴訟は刑事部が扱います。裁判官も、民事ばっかりやる人と刑事ばっかりやる人がいます。
 訴える人も違います。民事訴訟では、誰が誰を訴えてもかまいません。一方刑事事件では、訴えることができるのは検察官だけです。被害者がどれだけ相手を罰してほしいと思っても、検察官が起訴をしない限り、裁判にはなりません。

 裁判のやり方ついても非常に多くの違いがありますが、特徴的なのは「自白」の扱いです。
 民事訴訟では、相手が主張したことに対してもう一方が正しいと認めた場合(これを民事訴訟では「自白」といいます)には、裁判官は事実がその通りだったとしなければいけません。上の例で言えば、Bさんが「Aさんが飛び出してきた」と主張してAさんがそれを認めた場合、裁判官は「Aさんは飛び出してなんかいない」と思っても、Aさんが飛び出したものとして判断しなければなりません。
 一方、刑事訴訟では、検察官が「Cさんがやった」と主張したときに、いくらCさんが「自分がやった」と言っても(これが刑事訴訟で言う「自白」です)、それだけで有罪にすることはできません(憲法38条3項)し、裁判官は「Cさんはやってない」と判断することも可能です。自白を含めたさまざまな証拠によって、裁判官が真実かどうかを判断します。

 裁判を終わらせるときにも、民事訴訟では争っている人同士が勝手に裁判をやめることができます。刑事訴訟では、検察官がもういいやと思っても、真実が明らかになるまで裁判をやめられないのが原則です。

 他に、刑事訴訟に特徴的なものとして、「疑わしきは罰せず」(法律の世界では、「疑わしきは被告人の利益に」と言われます。)という考え方があります。刑罰を負わせるのは、本当に被告人(訴えられている人)が犯罪をしたことが疑いない場合のみにしようという考えです。自白もそうですが、歴史的に、国家が刑罰に名を借りて激しい人権侵害を行ったことに対する反省に基づいています。特に日本では、明治期に治安維持法による思想統制が厳しく行われたことなどから、憲法で、被告人の人権保護を詳細に定めています。(ただ、この「被告人の人権保護」一辺倒の考え方は、特に最近維持が難しくなってきています。)

 とまあ、こんな風に、民事事件と刑事事件には大きな違いがあるのです。


 メディアの報道などを見ていると、この違いがあまり意識されていないことが多いように思うので、ちょっと書いてみました。常識でしたかね。
Posted by l.c.oh - 2005.09.23,Fri
22日付けの新聞に、こんな記事が載りました。↓
「不起訴不当の議決、最大限尊重を」東京第二検審が勧告

 検察審査会なんて、聞いたことがない人がほとんどではないでしょうか。実はこれ、1948年からある、刑事事件への国民参加の制度で、昨今話題の裁判員制度と同じコンセプトのものです。ちょっと詳しく紹介しましょう。

制度の概要
 衆議院選挙の選挙権を持つ人の中から、くじで選ばれた11人で構成されます(もしかして、選ばれた事のある方、いらっしゃいます?)。任期は6ヶ月です。
 日本では、起訴するかしないか(裁判にするかしないか)は、検察官が決められることになっています(刑事訴訟法248条)。しかし、犯罪の被害者などが、起訴しないという判断に納得がいかない場合があります。その場合に、文句を言う先が検察審査会です。
 文句が上がってきた場合、検察審査会は、検察官からもらった資料を見たり証人を呼んだりして、起訴しないという判断が妥当だったかを判断します。起訴しないという判断がおかしいと思う人が11人中6人以上だと「不起訴不当(もっとよく捜査して下さい)」、8人以上だと「起訴相当(起訴すべし)」という判断がだされます。
 文句が上がってこなくても、検察審査会が自ら調査をすることもあります。
 ただ、検察審査会の判断には拘束力がなく、検察官は起訴をしなければならないわけではありません。

 もう1つ。検察審査会は、検察の仕事のあり方に文句を言うことができます。これが今回の記事で取り上げられている「建議・勧告」です。


目的
①日本では、起訴をする人も判決を出す人も、プロフェッショナルです。これはいい面もありますが、社会の感覚とずれてしまう危険があります。そこで、国民の感覚とプロの感覚をなるべく同期するために検察審査会があります。これが特に、裁判員制度のコンセプトとかぶるところです。
②検察官の職権濫用・判断の誤りを是正する目的もあります。


運用の実態
 ちょっと古いデータですが、平成9年までの総計で、検察審査会が審査したのは129,372件、そのうち、起訴相当または不起訴不当とされたものは15,960件で、全体の12.3%です。
 ただ、再捜査の結果、実際に起訴されたのは、そのうち2割程度といわれています。この背後には、起訴された=犯人というような感覚が国民に浸透していて、仮に無罪になっても社会で蒙る事実上の不利益(会社に居づらくなる、配偶者に愛想をつかされるなど)が大きいという考慮があると考えられます。


今後
 運用の実態を見ても分かるように、現在は検察審査会の趣旨が十分に活かされているとはいいにくい状況です。検察審査会の判断に拘束力を与えようという議論は結構昔からありました。司法制度改革の中で、「起訴相当」が2回出されれば必ず起訴されるように法律が改正され、2009年までに実施される予定です。


 で、今回の記事ですが、「検察審査会が起訴相当・不起訴不当の判断をしたのに、検察官が起訴する件数が少なすぎるから何とかしてくれ」というのが、勧告の内容です。これはどうも、橋本龍太郎氏と日歯の件が起訴されなかったことを念頭において出されたもののようですが、検察審査会があまり機能していないことが社会的にも問題にされる時期にきているのかもしれません。
ただ、運用の背後にあるのが、「国民の意識」という漠然としたものであり、一朝一夕に変わるものではないため、一般論のレベルでは、結構難しい価値判断になりそうな気がしています。

おまけ
 裁判員制度については、裁判所のHPをご覧ください。丁寧な解説があります。
 ちなみにアメリカでは、一定の重大事件について、起訴すべきかどうかを陪審で決めます。これを大陪審といいます。映画などでよく見かけるような、有罪・無罪の判断をする陪審は、小陪審という別の制度です。大・小は単に人数の違いだけで、どちらが重要かを示すものではありません。
僕が(一部)書いた本が出版されました
yanagawasemi
柳川範之+柳川研究室[編著]
これからの金融がわかる本
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職業:
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