ブログ(仮)
Posted by l.c.oh - 2005.09.06,Tue
この企画、高々6回ですが、自分ではよく続くものだと感心しております。
今日は判決に戻りましょう。
今日取り上げるのは、平成17年7月4日に出された判決です。ライフスペースのいわゆるミイラ化死体事件、「定説」の高橋代表の裁判です。今回国民審査の対象となる6人のうち、3人が関わっています。
何が問題になったか
「何もしない」ことが殺人になるか
裁判所の判断
殺人になる(最高裁判所がこれを認めたのは初めてです。)
中川了滋裁判官→殺人になる(裁判長)
今井功裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)
津野修裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)
詳細
注意は以前2回も書いたので、今日は省略します。
事実関係
高橋被告は「手の平で患部をたたいてエネルギーを患者に患者に通すことにより自己治癒力を高めるという「シャクンティーパッド」と称する独自の治療(以下「シャクンテォー治療」という。)を施す特別の能力を持つなどとして信奉者を集めていた」(判決より引用)そうです。
Aさんと息子のBさんはライフスペースの信者でした。Aさんが脳内出血で倒れて入院していましたが、シャクンティー治療を受けさせるため、Bさんが、高橋被告の指示に従って、Aさんを高橋被告の所に連れて行きました。高橋被告は、シャクンティー治療のみを行った(現代医学の見地からすれば、何もしなかった)ため、Bさんは1日後に死亡しました。
高橋被告は、Bさんを死なせるために、積極的に何かをしたわけではありません。このように、何もしなかった(不作為といいます)ことが殺人になるかが争いになったわけです。
法律
死なせたことは明らかなので、何が争いになるのかいぶかる方も多いと思いますが、「不作為による殺人」というのは、理論的には結構難しい問題をかかえているところだったりします。ここでは、理論的な正確性は多少犠牲にして、どうして問題になるのかを簡単に説明します。
「不作為」というのは非常に広い概念です。刑法は何かの行為を取り上げて問題にするものですが、「何もしない」という行為を「何かをする」という行為と同じように扱ってしまうと、大変なことになります。「何もしない」という言葉は語弊があるのですが、とりあえず、何か積極的な行為をしないことだと考えてください。
よく挙げられる例ですが、プールで子供が溺れている場合を考えましょう。ここでは、例えば、子供の頭を押さえて息ができないようにすることが、刑法で言う「何かをする」にあたります。一方、子供を助けないで傍観していたということが、「何もしない」ことにあたることになります。この場合、子供を助けなかった人全員を、子供の頭を押さえつけた人と同じように殺人罪にしてしまうのはさすがにおかしいでしょう(倫理の問題はとりあえず脇に置いておきます)。しかし、そばにいた父親が、子供を簡単に助けられたのに、子憎たらしい子供だから死んでもいいやと思って何もしなかったとなると、これは問題です。同じ「何もしない」でも、犯罪としたほうがよい場合とそうでない場合があるのです。これは常識にも合いますし、学者の皆さんもこのように考えています。
そこで、どう線を引くかが問題になってきます。理論的には非常に難しい問題があるのですが、とりあえず、助けるなどの積極的な行為をする義務が(法的に)あるかどうかで分ける、というのが一般的といってよいでしょう。
このように、不作為が殺人になりうるということはかなり広く受け入れられている考えです。地方裁判所や高等裁判所レベルでは認める判断も数多く出されていますし、明治時代には現在の最高裁判所に当たる機関(大審院)が認める判断をした例もあります。しかし、最高裁判所は、不作為が殺人になることを認めたことはありませんでした。これは、最高裁判所が怠けていたわけではなく、実際に不作為による殺人が最高裁判所で問題になったことがほとんどないという理由によります。
裁判所の判断
高橋被告の場合は、積極的な行為をする義務があったかがどうか、が実質的に一番争いになりました。この点で裁判所は、高橋被告がBさんの治療を全面的に任されていた点をとらえて義務があったと認めたのです。
社会的には、高橋被告に義務があったと最高裁判所が認めたことより、初めて不作為による殺人を認めたことの方が大きな意味を持っています。今まで最高裁判所の扱いが分からなかったものが一つ明らかにされたからです。
また、検察と高橋被告は、不作為による殺人が成立しうるという前提で、そのほかの点について争っていました。不作為による殺人が成立するかどうかは、最高裁判所の立場を明確にするため、最高裁判所自ら積極的に(職権で)取り上げた、という意味でも、この判決は大切な判断です。
なお、殺人とされるためには、殺す意図(故意といいます)が必要ですが、高橋被告には、Bさんが死んでも構わないという意識(未必の故意といいます)があったとしています。
評価
僕の極めて個人的な意見です。
僕は、理論的な関心はさておき、判決自体は当然の帰結だと思っています。今まで判決がなかったのが不思議なくらいです。
むしろ僕は、最高裁判所が職権で取り上げた、という点を高く評価したいと思います。最高裁判所の立場は、ある行動が裁判になったときにどうなるのか、という予測を立てるために非常に重要ですし、理論を考えていく上でも出発点になることがよくあります。しかし、最高裁判所は今まで、職権で問題を取り上げることにあまり積極的ではなかったという印象があります(一般的な印象です。刑事事件ではそうでもなかったのかもしれません。曖昧なままですみません。)。ここにきて最高裁判所が職権で問題を取り上げたということは、社会(もしくは学者や実務家)の要請に応えて行こうというの姿勢の一つの現われといえるでしょう。この点、この事件に関係した裁判官には一定の評価をしてよいのではないかと思います。
おまけをもう1つ。高橋被告は懲役7年とされました。ちょっと軽いと感じるかもしれませんが、これは初めて殺人をした人の刑の重さとしては、大体相場に近いと思います。刑は、懲罰ではなく、犯罪者を更正させるために行うという建前があるため、社会の処罰感情と実際の刑はずれてしまうことがよくあります。これは、刑務所の存在をどう考えるか、という非常に重い問題ですので、みんなで考えていくべき課題だと思います。
今日は分量を少なくして楽をしようと思ったのですが、思いのほか長くなってしまいました。刑事訴訟を扱うのはやっぱり難しいですね。
今日は判決に戻りましょう。
今日取り上げるのは、平成17年7月4日に出された判決です。ライフスペースのいわゆるミイラ化死体事件、「定説」の高橋代表の裁判です。今回国民審査の対象となる6人のうち、3人が関わっています。
何が問題になったか
「何もしない」ことが殺人になるか
裁判所の判断
殺人になる(最高裁判所がこれを認めたのは初めてです。)
中川了滋裁判官→殺人になる(裁判長)
今井功裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)
津野修裁判官→殺人になる(裁判所の判断に同意)
詳細
注意は以前2回も書いたので、今日は省略します。
事実関係
高橋被告は「手の平で患部をたたいてエネルギーを患者に患者に通すことにより自己治癒力を高めるという「シャクンティーパッド」と称する独自の治療(以下「シャクンテォー治療」という。)を施す特別の能力を持つなどとして信奉者を集めていた」(判決より引用)そうです。
Aさんと息子のBさんはライフスペースの信者でした。Aさんが脳内出血で倒れて入院していましたが、シャクンティー治療を受けさせるため、Bさんが、高橋被告の指示に従って、Aさんを高橋被告の所に連れて行きました。高橋被告は、シャクンティー治療のみを行った(現代医学の見地からすれば、何もしなかった)ため、Bさんは1日後に死亡しました。
高橋被告は、Bさんを死なせるために、積極的に何かをしたわけではありません。このように、何もしなかった(不作為といいます)ことが殺人になるかが争いになったわけです。
法律
死なせたことは明らかなので、何が争いになるのかいぶかる方も多いと思いますが、「不作為による殺人」というのは、理論的には結構難しい問題をかかえているところだったりします。ここでは、理論的な正確性は多少犠牲にして、どうして問題になるのかを簡単に説明します。
「不作為」というのは非常に広い概念です。刑法は何かの行為を取り上げて問題にするものですが、「何もしない」という行為を「何かをする」という行為と同じように扱ってしまうと、大変なことになります。「何もしない」という言葉は語弊があるのですが、とりあえず、何か積極的な行為をしないことだと考えてください。
よく挙げられる例ですが、プールで子供が溺れている場合を考えましょう。ここでは、例えば、子供の頭を押さえて息ができないようにすることが、刑法で言う「何かをする」にあたります。一方、子供を助けないで傍観していたということが、「何もしない」ことにあたることになります。この場合、子供を助けなかった人全員を、子供の頭を押さえつけた人と同じように殺人罪にしてしまうのはさすがにおかしいでしょう(倫理の問題はとりあえず脇に置いておきます)。しかし、そばにいた父親が、子供を簡単に助けられたのに、子憎たらしい子供だから死んでもいいやと思って何もしなかったとなると、これは問題です。同じ「何もしない」でも、犯罪としたほうがよい場合とそうでない場合があるのです。これは常識にも合いますし、学者の皆さんもこのように考えています。
そこで、どう線を引くかが問題になってきます。理論的には非常に難しい問題があるのですが、とりあえず、助けるなどの積極的な行為をする義務が(法的に)あるかどうかで分ける、というのが一般的といってよいでしょう。
このように、不作為が殺人になりうるということはかなり広く受け入れられている考えです。地方裁判所や高等裁判所レベルでは認める判断も数多く出されていますし、明治時代には現在の最高裁判所に当たる機関(大審院)が認める判断をした例もあります。しかし、最高裁判所は、不作為が殺人になることを認めたことはありませんでした。これは、最高裁判所が怠けていたわけではなく、実際に不作為による殺人が最高裁判所で問題になったことがほとんどないという理由によります。
裁判所の判断
高橋被告の場合は、積極的な行為をする義務があったかがどうか、が実質的に一番争いになりました。この点で裁判所は、高橋被告がBさんの治療を全面的に任されていた点をとらえて義務があったと認めたのです。
社会的には、高橋被告に義務があったと最高裁判所が認めたことより、初めて不作為による殺人を認めたことの方が大きな意味を持っています。今まで最高裁判所の扱いが分からなかったものが一つ明らかにされたからです。
また、検察と高橋被告は、不作為による殺人が成立しうるという前提で、そのほかの点について争っていました。不作為による殺人が成立するかどうかは、最高裁判所の立場を明確にするため、最高裁判所自ら積極的に(職権で)取り上げた、という意味でも、この判決は大切な判断です。
なお、殺人とされるためには、殺す意図(故意といいます)が必要ですが、高橋被告には、Bさんが死んでも構わないという意識(未必の故意といいます)があったとしています。
評価
僕の極めて個人的な意見です。
僕は、理論的な関心はさておき、判決自体は当然の帰結だと思っています。今まで判決がなかったのが不思議なくらいです。
むしろ僕は、最高裁判所が職権で取り上げた、という点を高く評価したいと思います。最高裁判所の立場は、ある行動が裁判になったときにどうなるのか、という予測を立てるために非常に重要ですし、理論を考えていく上でも出発点になることがよくあります。しかし、最高裁判所は今まで、職権で問題を取り上げることにあまり積極的ではなかったという印象があります(一般的な印象です。刑事事件ではそうでもなかったのかもしれません。曖昧なままですみません。)。ここにきて最高裁判所が職権で問題を取り上げたということは、社会(もしくは学者や実務家)の要請に応えて行こうというの姿勢の一つの現われといえるでしょう。この点、この事件に関係した裁判官には一定の評価をしてよいのではないかと思います。
おまけをもう1つ。高橋被告は懲役7年とされました。ちょっと軽いと感じるかもしれませんが、これは初めて殺人をした人の刑の重さとしては、大体相場に近いと思います。刑は、懲罰ではなく、犯罪者を更正させるために行うという建前があるため、社会の処罰感情と実際の刑はずれてしまうことがよくあります。これは、刑務所の存在をどう考えるか、という非常に重い問題ですので、みんなで考えていくべき課題だと思います。
今日は分量を少なくして楽をしようと思ったのですが、思いのほか長くなってしまいました。刑事訴訟を扱うのはやっぱり難しいですね。
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