ブログ(仮)
Posted by l.c.oh - 2005.09.05,Mon
今日はちょっと趣向を変えて、最高裁判所の役割と国民審査の位置づけについて書こうと思います。
最高裁判所は、人々の間に起こった法律に関する争いに、最終的に決着をつける機関です。雑な言い方をしてしまうと、現在の制度上、最高裁判所は法律の解釈を担当し、事実があったかなかったかを最高裁判所で争うことはできません。例えば、リスクのある金融商品を買ったときに、商品の内容について説明したかどうかについて(一方は「きちんと説明した」と主張し、もう一方は「そんな説明は受けていない」と主張する場合)は、高等裁判所の段階までしか争うことはできず、高等裁判所が、証拠などから「説明はなかった」と判断したら、それが最終的な判断になります。一方、説明がなかった場合にどのような効果が生じるか(契約が無効になって損害を賠償してもらえるか)を判断するのが最高裁判所の仕事になります。
また、最高裁判所は、法律や条令などが憲法に違反していないかについても判断することができます(憲法81条に規定があります。)。憲法は日本の法律の最も基本になるもので、憲法に違反する法律はあっても効力がありません(憲法98条1項に規定があります。)。この、憲法に違反しているかどうかを最終的に判断するのが、最高裁判所のもう1つの重要な仕事になります。昨日と一昨日取り上げた判決も、憲法と法律・条令の関係が問題になったものです。
このように考えると、最高裁判所は普段の生活には全く関係がないようにも思えます。確かに、裁判になって最高裁判所まで争いが長引くようなものは、社会で一般的なものではなく、限界的な事例が多いのも確かです。しかし、そうでもないものも結構あります。
昨今話題の、「サラリーマン増税」について考えてみましょう。
国民の反発にもかかわらず、国会でサラリーマン増税法が成立してしまったとしましょう。この場合、法律がきちんとあるので、税務署に文句を言ってみても埒があきません。なぜなら、税務署は、法律のとおりに税金を集める義務があるからです。
そこで、裁判所に訴えてみることにします。こういう場合は、「サラリーマン増税法はサラリーマンを自営業の人たちなどと差別していて、憲法14条(法の下の平等)に違反している!」と主張することになるでしょう。実際過去に、サラリーマンの給与所得控除が自営業者に比べて少ない、といって裁判になったことがあります(いわゆるサラリーマン税金訴訟、昭和60年3月27日の判決です。)。このときは不平等ではない、という結論になったのですが、今はとりあえず、最高裁判所で認められ、サラリーマン増税法は憲法違反、という判決が出たとします。すると、この法律は効力がないことになるのです。(「効力を有しない」という言葉をどのように考えるかは、学者の方々の間でも考え方が分かれていたりします。わかりにくいですが、憲法違反とされた法律は、判決によってすぐに廃止されるわけではない、と考えるのが法律の世界では一般的です。)
他にも、校則で坊主頭を強制したことが憲法に違反しないか問題になった事件や、定年を男性55歳女性50歳としていたことが憲法違反とされて、慌てて会社が男女平等にした事件など、最高裁判所がする仕事は、日々の生活にかなり関係が深いものも多いのです。
さらに、こと憲法が関係するものに関しては、裁判所は国会より強いのです。先ほどのサラリーマン増税の場合に、国会が「サラリーマン増税法は憲法違反ではない」と頑張ったとしましょう。税務署も頑張って税金を取り立てたとします。ところが、税金を取られたサラリーマンの人が裁判所に文句を持っていくと、国はまず間違いなく負けて、取った税金を強制的に返還させられることになります。そうなると、国としては法律を使うことができなくなり、法律を廃止せざるをえなくなるでしょう。
また、最高裁判所の判断は、法律の世界では非常に強い力を持っています。最高裁判所に従わないと、裁判で負ける可能性が非常に低くなってしまうからです。(全く勝てないわけではありません。最高裁判所が「前の判断は間違っていたので訂正します」という判決を出せば、勝てることもあります。しかしこれは極めてまれです。)
このように強い力を持っている(と言ってもいいでしょう)最高裁判所の裁判官は、選挙で選ばれるわけではありません。また、国会や首相が最高裁判所のすることに文句があったとしても、裁判官をくびにしたりすることは基本的にできません(司法権の独立の1つの要素)。
そこで、最高裁判所がとんでもないことをしないように監視するため、国民審査という制度が作られたのです。
ただ、法律の知識がない人が、最高裁判所の裁判官がふさわしいかを判断するのはやはり難しく、廃止するべきだという話もちらほら出ています。しかし、この制度があると、裁判官は社会の常識からかけ離れたとんでもないことをすることは少なくなると考えられます。また、実際に罷免されないまでも罷免すべきとする票が一定の数集まるとなると、その裁判官は、「ちょっとずれてるかも」と反省する機会にもなります。(情報提供がすすんで皆さんがきちんと判断する材料が整えば、実際に罷免される裁判官も出てくるかもしれません。)
このように、国民審査は、法律の世界の常識と、社会の常識を調整する役割を担っているのです。
ちょっと誤解を招きそうなので補足しておきます。
国会議員は選挙で選ばれるので、国会が裁判所よりずっと社会の常識=民意を反映していることは間違いありません。そこで、裁判所は基本的に、国会が決めたことは十分に尊重する必要があります。法律が最高裁判所によって憲法違反とされるということは、その法律がよほどひどいということだと考えてよいでしょう。
とまぁ、こんな感じですね。
なんか本格的に「…で?(それがどうした)」っていう内容になってきている気がする。
誰か読んでいる人いるのかしら?
最高裁判所は、人々の間に起こった法律に関する争いに、最終的に決着をつける機関です。雑な言い方をしてしまうと、現在の制度上、最高裁判所は法律の解釈を担当し、事実があったかなかったかを最高裁判所で争うことはできません。例えば、リスクのある金融商品を買ったときに、商品の内容について説明したかどうかについて(一方は「きちんと説明した」と主張し、もう一方は「そんな説明は受けていない」と主張する場合)は、高等裁判所の段階までしか争うことはできず、高等裁判所が、証拠などから「説明はなかった」と判断したら、それが最終的な判断になります。一方、説明がなかった場合にどのような効果が生じるか(契約が無効になって損害を賠償してもらえるか)を判断するのが最高裁判所の仕事になります。
また、最高裁判所は、法律や条令などが憲法に違反していないかについても判断することができます(憲法81条に規定があります。)。憲法は日本の法律の最も基本になるもので、憲法に違反する法律はあっても効力がありません(憲法98条1項に規定があります。)。この、憲法に違反しているかどうかを最終的に判断するのが、最高裁判所のもう1つの重要な仕事になります。昨日と一昨日取り上げた判決も、憲法と法律・条令の関係が問題になったものです。
このように考えると、最高裁判所は普段の生活には全く関係がないようにも思えます。確かに、裁判になって最高裁判所まで争いが長引くようなものは、社会で一般的なものではなく、限界的な事例が多いのも確かです。しかし、そうでもないものも結構あります。
昨今話題の、「サラリーマン増税」について考えてみましょう。
国民の反発にもかかわらず、国会でサラリーマン増税法が成立してしまったとしましょう。この場合、法律がきちんとあるので、税務署に文句を言ってみても埒があきません。なぜなら、税務署は、法律のとおりに税金を集める義務があるからです。
そこで、裁判所に訴えてみることにします。こういう場合は、「サラリーマン増税法はサラリーマンを自営業の人たちなどと差別していて、憲法14条(法の下の平等)に違反している!」と主張することになるでしょう。実際過去に、サラリーマンの給与所得控除が自営業者に比べて少ない、といって裁判になったことがあります(いわゆるサラリーマン税金訴訟、昭和60年3月27日の判決です。)。このときは不平等ではない、という結論になったのですが、今はとりあえず、最高裁判所で認められ、サラリーマン増税法は憲法違反、という判決が出たとします。すると、この法律は効力がないことになるのです。(「効力を有しない」という言葉をどのように考えるかは、学者の方々の間でも考え方が分かれていたりします。わかりにくいですが、憲法違反とされた法律は、判決によってすぐに廃止されるわけではない、と考えるのが法律の世界では一般的です。)
他にも、校則で坊主頭を強制したことが憲法に違反しないか問題になった事件や、定年を男性55歳女性50歳としていたことが憲法違反とされて、慌てて会社が男女平等にした事件など、最高裁判所がする仕事は、日々の生活にかなり関係が深いものも多いのです。
さらに、こと憲法が関係するものに関しては、裁判所は国会より強いのです。先ほどのサラリーマン増税の場合に、国会が「サラリーマン増税法は憲法違反ではない」と頑張ったとしましょう。税務署も頑張って税金を取り立てたとします。ところが、税金を取られたサラリーマンの人が裁判所に文句を持っていくと、国はまず間違いなく負けて、取った税金を強制的に返還させられることになります。そうなると、国としては法律を使うことができなくなり、法律を廃止せざるをえなくなるでしょう。
また、最高裁判所の判断は、法律の世界では非常に強い力を持っています。最高裁判所に従わないと、裁判で負ける可能性が非常に低くなってしまうからです。(全く勝てないわけではありません。最高裁判所が「前の判断は間違っていたので訂正します」という判決を出せば、勝てることもあります。しかしこれは極めてまれです。)
このように強い力を持っている(と言ってもいいでしょう)最高裁判所の裁判官は、選挙で選ばれるわけではありません。また、国会や首相が最高裁判所のすることに文句があったとしても、裁判官をくびにしたりすることは基本的にできません(司法権の独立の1つの要素)。
そこで、最高裁判所がとんでもないことをしないように監視するため、国民審査という制度が作られたのです。
ただ、法律の知識がない人が、最高裁判所の裁判官がふさわしいかを判断するのはやはり難しく、廃止するべきだという話もちらほら出ています。しかし、この制度があると、裁判官は社会の常識からかけ離れたとんでもないことをすることは少なくなると考えられます。また、実際に罷免されないまでも罷免すべきとする票が一定の数集まるとなると、その裁判官は、「ちょっとずれてるかも」と反省する機会にもなります。(情報提供がすすんで皆さんがきちんと判断する材料が整えば、実際に罷免される裁判官も出てくるかもしれません。)
このように、国民審査は、法律の世界の常識と、社会の常識を調整する役割を担っているのです。
ちょっと誤解を招きそうなので補足しておきます。
国会議員は選挙で選ばれるので、国会が裁判所よりずっと社会の常識=民意を反映していることは間違いありません。そこで、裁判所は基本的に、国会が決めたことは十分に尊重する必要があります。法律が最高裁判所によって憲法違反とされるということは、その法律がよほどひどいということだと考えてよいでしょう。
とまぁ、こんな感じですね。
なんか本格的に「…で?(それがどうした)」っていう内容になってきている気がする。
誰か読んでいる人いるのかしら?
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